3月11日はまだまだ記憶に新しい震災の日です。
あの日、私は家から自転車で30分ほどのところで働いていました。
金曜日だったので帰りは遊びに行こうと自転車ではなく電車で仕事場に行った覚えがありました。
仕事が15時までだったので、片付けをしながら仕事場の人と話をしていると・・・
ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴと言う音とともに揺れ始めました。
数十秒後、あまりに揺れが大きくなったので「これはまずい!」となり、荷物を全部持って避難しようとしました。
仕事をしていた場所は倉庫でかなり頑丈な作りだったのですが、あまりに揺れが激しく、「大丈夫ですよー」なんてのんきなことを言っていた現場担当の人の言葉を無視して、周りの人たちは避難しなきゃという雰囲気になっていました。
当時学生だった私は、休憩時間は勉強をしていたので周りの人ともほとんど話をしたことがなかったのにも関わらず、「坪井さん、避難できるか階段とか確かめてきてくれませんか?」となぜかお願いされ、3F〜1Fまでの階段を確認し、みんなで避難しました。
1Fに着くき扉を開けると、倉庫にしまってあったコピー機数十台が波のようにうねっていて通れなくなっていました。
そこでまた何故か「坪井さん道作ってください!」と私をプロレスラーか何かと勘違いしているような力技を押し付けられ、しぶしぶコピー機を押しのけながら外まで避難しました。
外に出ると、横のビルは豆腐のように揺れていたのを覚えているのと、外に出ても立っていられない地震というのは初めてだったので「これはまさに世紀末(2000年過ぎていますが)」なんて思ったのを覚えています。
とりあえず、家が近いということで帰らせてもらうことになり、自転車で来なかったのを悔いながら奇跡的にタクシーを拾えて帰宅をしました。
とにかく可愛いふくちゃん(わんこ)が心配だったので家にたどり着くと・・・・・・・
何事もなく揺れながら座っていました。
と同時にテレビには衝撃的な津波の映像が流れ、事の重大さがわかってきました。
直感で「これはスーパーマーケットに行かないといけない!」と思い近所のイオンに行くと・・・
すでに買い占めが始まっていました。
棚という棚からどんどんと商品が消えていく中、とりあえず家の人間とふくちゃんが数日は困らないくらいの食べ物をカゴに入れ、外に出ると・・・
帰宅を始める帰宅難民の方が大通りを歩き始めていました。
あぁ、やはり大災害なんだなと実感しながらも、そこから数日は電気も節約し、夜もろうそくの光で節電を心がげていました。
母方の実家が福島なのですが、やはりしばらくは電話がつながらない状態でした。
山側なので津波の被害はなかったのですが、遠い親戚の方が亡くなられたそうです。
最近でこそ余震はなくなりましたが、あの四六時中ゆらゆらと揺れている感覚になる副作用は嫌でしたね。。。
毎年この日が来ると当時のことを思い出します。
最近も地震が増えてきているので少し心配ですね。