先週の木曜日、父親が他界しました。
あまりこういう話を店舗のホームページに載せるのもどうなのかなと思ったのですが、なんとなく思うことがチラホラあったので描いてみようかなと思いました。
先週の予約をいただいていた時点で葬儀がまだ決まっていなかったので、事情を話した方だけにはお話をしていたのですが、皆さん気を使ってしまわれるのであまり話すことでもないかなと思っていました。
そもそも、ここ1-2年は寝たきり状態になっていたので、あの状態が生きていて楽しい状態だとも思えなかったというのもあり、亡くなったときの感情は「お疲れ様」という感情しか沸かなかったですし、今でもその気持ちだけです。
悲しくないの?とか仕事大丈夫なの?とか聞かれるんですけど、悲しいっていう感情はわかないんですよね。
私は父親とは性格も違いますし、子供の頃から理解のできない人だったので多分親族の人たちは「父親が嫌いだったから悲しんでいない」って思っている人も多いと思います。
ただ、昨年とてもとても大事だったワンコさんが亡くなった時にも正直同じ様な感情でした。
悲しいというよりもお疲れ様。
生き物が死ぬ時、残された側は様々な想いが残ります。
その想いは時には綺麗な思い出であったり時には嫌な思い出であったり、そこは人それぞれなんですけど、その想いに感情を絡めてしまうと絡めとられてしまうことがあります。
それは元気だったものが突然亡くなったりすると現実を受け止められなくなって想いを必死に繋ぎ止めたくなるものでもあります。
それが老衰だった場合には、大抵の場合は元気がなくなっていく状態を見て想いが薄まっていく場合がほとんどです。
実はそうやって薄まっていきながら亡くなったほうがお互いにとって良い場合もあると思うんですね。
自分は見えない世界というものはわからないのですが、人の思いというものは自分の思いが強すぎてもその場に留まってしまうと言いますし、相手の思いが強くてもその場を離れられなくなると言います。
なので、ワンコさんの時も思い出は残っていますが、亡くなってしまったことを残念に思いいつまでも後ろ髪を引かれるというのは良くないと思っていました。
今回も同じ様な感じなのですが、父親との思い出とか楽しかった記憶っていうものがびっくりするほどなかったといいうことにも驚いています。
うちの家族は【兄は正しく弟は不出来】という考えが昔から今に至るまで徹底されているので、もうそれでいいのではないかとも思っています。
葬儀の内容を見てもその片鱗がチラホラ見えまして、親戚も少し苦笑いしているという部分があったりしましたが、それも今更なんとも思っていない自分がいたりします。
本人たちがそのおかしさに気づかないのですから、もうそれで通せばいいのではないかなと。
今回初めて肉親が他界したのですが、多分私は今まで通りの生活で何も変わらない気もします。
しかし、意外と自分の気づかないところで何かしら変化していくものなのかもしれません。
仲が良かろうが悪かろうが、その人がいなくなるという影響は自分の中で何か変化があるのかもしれませんね。